溶かした金属を鋳型などに流し込む際に使う深めの器。高熱に耐えることが必要なため、
厚手 で素地に作られている。古代の坩堝は珍しくないが、このように完全な形で見つかる ことは稀で、 さらに、溶解した金属が付着しているものは少なく、極めて優れもの。 金属成分は、非破壊で分 析をすると種類や含有量までわかる。 蛇足だが、「興奮の坩堝と化した。」などという表現は、中 が大変熱くなっていることか ら使われている。 ところで、この坩堝が見つかったのは古代の寺院跡、ここからは以前に興味深い 木簡 が見つ かっている。 木簡に書かれているのは、「鑄所(いものどころ)解(げ)す、荒炭を請うを申すの事 合わせて十籠。□鐸の鋳料のため 景雲二年四月二十五日 物部入鹿」要約すると、鑄所という 鋳物の工房から資材を管理する 上部の機関に、□鐸を鋳造するために荒炭を十籠下さい、とい うもの。 下には、西暦768年の日付と差出人の物部入鹿という人の名前が書かれている。 この 坩堝の発見と木簡に記載された内容は、古代寺院における工房施設の存在とその 位置関係を 示す貴重なものとなった。 出土:豊岡市日高町 奈良時代 坩堝:口径13p、高さ7p 木簡:全長49.8p 木簡:2008年2月15日 24-70o F2.8 Mr.ヱビス) |
須恵器の坏(坏身と坏蓋のセット)、蓋付の浅めの鉢というイメージであろうか。
当時は、今でい う茶碗のような身近な食器であった。 今も昔も、このような食器の類は壊れやすいので、量産され る。そのおかげで、 時代の変化や、技術の向上、逆に生産量を上げるための技法の省略などが みられ、 それが微妙に土器から読み取れる。 一見、何の変哲もない地味な坏身と坏蓋であるが、時代だけではなく、 生産地まで特定できる。 但馬では、まだ須恵器の生産が行われていない5世紀中頃 から後半にかけて、大阪西南部にあ る「陶邑(すえむら)」とよばれるところで 生産されたものである。 どうも、いかん。変人・奇人の宴 会以来、説明が.... 今回は、ちょっとK社のColor Control Patchesを入れた画像も入れておいた。 今回は、色調補正 はしなくてよかった。スッキリ! 出土:日高町(5世紀) 坏身の最大径: 14p |