今から、30数年前まで、千年以上も前の紙が土の中から出土するとは考えられなかった。
しか し、黒っぽい皮の固まったようなものに文字が書かれていることがわかると、 赤外線カメラの普及 もあり、各地で発見例が増加した。皮の固まったように見えたもの、 それが漆紙文書である。 漆 紙とは、漆の保護作用によって紙が固められたものをいい、 紙に文字が書かれていたら漆紙文 書となる。(文字が無くても漆紙文書と総称することもある。) 本例は、須恵器の皿を漆のパレット代わりに使用する際、皿の底に紙を敷き、 その上に漆を入 れて何かに塗布、その際、漆にほこりが付着しないように紙で蓋をした。 当時、紙は貴重品であ るため、使用済みの文書を使ったことから、 そのまま漆が固まってしまったため、使用できなくな り廃棄された、こういう経過であろう。 デジカメの画像を見ていただくとわかるように、肉眼では文 字は判読できない。 しかし、赤外線カメラを使用すると、モノクロの画像のように文字が書かれて いるのがわかる。 書かれている内容は 人名、年齢(共に思われる)と、別筆で「給」という文字、 さらに数字が書かれている。紙は断簡であるため、詳細は不明であるが、おそらく、 生活の困窮 者に食料か何かを配布した際の記録文書であろう。 ちなみに、紙は裏向きに置かれていたた め、画像ソフトで反転させた。 今のところ、兵庫県下で唯一の発見例である。 豊岡市日高町出土 時代:9世紀(平安時代) 皿の直径:13p 器高: 2p |
日本の古代の硯は一般に石を削って作ったものでなく、須恵器(すえき)と呼ばれる焼き物で、
そ のため、硯として作られたもの以外にも、今で云う食器の蓋や、皿、茶碗の底裏の高台など も硯 として転用されました。これは復元すると直径13cm程度の小さな皿ですが、内面に墨 が付着し ていること、触ると"つるつる"になっていることから、皿を硯に転用したことが解ります。 ※おまけ 皿の底 には「養父」と云う文字が書かれているのがお判り頂けるでしょうか?。 |
少し前にレンズを購入していたのだが、長らく変人写真を撮っていなかったので、
ちょっと試写し てみることにした。 モデルになってもらったのは、イヌの頭蓋骨。イヌといっても、 約1200年前の平 安時代のもの。平安時代のイヌの骨は但馬でも見つかっているが、 頭蓋骨は初めて。後頭部は 欠けてしまっているが、眼の上の前頭骨から鼻骨にか けての線がくぼんでいるのでイヌと判明。 下顎骨は見つかっていない。正面から 見たところがこれ。 現存最大長 12.5p 出土:豊岡市日高町 |
奈良時代や平安時代の役人は、衣服の色だけでなく、身につけるものまでいろいろと規定されて いました。たとえば、「腰帯」いわゆるバンド(ベルトのほうがわかりやすいかな?)ですが、今と同 じように金属製のバックルと、皮の帯部分で構成されています。帯の部分には、金属や石で作ら れた四角や半円のような形の飾り(前者を巡方、後者を丸鞆とよんでいます)をつけています。今 回紹介するのは鉈尾(だび)とよばれるもので、ベルトの後端に付ける飾りです。どうやって取り 付けたのか、裏を見ると2個一対の小さな穴が三箇所あけられています。針金のようなもので革 の 帯に付けたと思います。 表面や側面は丁寧に磨かれ、漆黒の輝きをしています。これは、もと もと銅製の帯金具に黒漆を塗ったことから、黒い石を用いたと思います。他にも白っぽい石も使 われています。 長さが、6.1p、幅が4.3p(幅=帯の幅になります。)、厚みが0.6pで、この種のも のとしてはやや大型です。 都から派遣されていた但馬の役人が使用していたものか… 出土:豊岡市日高町 |
職場の隣の発掘現場、楕円形の穴を掘ったところに川原石と土師器の甕を入れ、
さらに土師器 の椀を裏返して蓋をしている。 中に何が入っているのか興味深いが、 それはさておき、発掘現場では謎のものが多く、調査員を 困らせている。 可能性を考えると、建物を建てる際の地鎮の遺構、胞衣収めのための遺構(胞衣壺)、 悪霊を 封じて蓋をした除災のための遺構がある。 最後の説とすると、蓋を開けた者 に悪霊がうつったりして、くわばらくわばら。 出土:豊岡市日高町 |