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20.下駄


柾目の下駄である。
  
一木で作られ、歯は削りだされている。
  
左足用であることが鼻緒の穴の位置からわかる。
  
むっ?そういえば今は真ん中にあいているはず。いつ頃からそうなったのか、また調べてみよう。
  
歯の磨り減り具合から、持ち主は内股で歩いていたことがわかる。
  
8世紀(奈良時代)
  
ヒノキ製
  
出土:豊岡市日高町
  
(撮影データ:2006/7/19  EOS5D 28-105o  Mr.ヱビス)

  

19.木簡 C


死逃帳

死逃帳 拡大

朝来郡

古代の公文書を巻いた軸木のみだし部分です(隠語では題籤軸といいます)。 軸木は折られて
  
いますが(写真の「死逃帳」の全体が写っている下端近くに、 軸木の横方向に刃物が入ってお
  
り、意識的に折ったものと考えられます)、 もともとは30p位あったと思われます。横長の和紙に
  
書いた文書を軸に巻くと、 開かないと中に何を書いたかわからないため、上部に見出しを書くよ
  
うにしたのです。
  
 片面には「朝来郡」、裏面には「死逃帳」、写真ではわかりにくいのですが、 両側面に「天長三
  
年(西暦826年)」と書かれています。このことから、この軸木には、 天長三年に朝来郡内で死亡
  
した人と、逃亡した人を書き連ねた戸籍関係の文書が巻いて あったことがわかりました。こうした
  
文書は、郡の役所で作成され、それを国の役所 (国府)に報告、国府では各郡から集められた
  
同様の文書をまとめ、都に報告しました。
  
木はヒノキ材 時代 平安時代
  
現存長 12.3p
  
出土:日高町
  
(撮影データ:撮影日 2006/4/30  EOS D 28-105o   Mr.ヱビス)

  

18.石皿(いしざら)と磨石(すりいし)


石モノでいきたかったが、石材に自信がないので古モノで。
  
米作りが始まる以前の縄文時代は、狩猟や木の実を採集して食べていました。
  
その頃は、金属器もないため、捕まえた動物は石で作ったナイフなどで料理し、 木の実は石です
  
りつぶして調理していました。
  
そのとき使われるのがこの石皿(下) と磨石(上)です。 「川原の石とどこがちがうねん?」と言い
  
たい方もあると思います。
  
決め手は、このような石の出てこない縄文時代の土層から見つかったこと。さらに、石同士 をこす
  
り合わせて実をつぶしていますので皿の中央部はくぼみ、両者とも通常の 川原石よりも研磨さ
  
れ、つるつるしています。縄文時代の人に習って、ドングリで クッキーを作ってみましたが、なかな
  
かいけました。 まぁ、今で言う擂鉢と擂粉木ですね。
  
縄文時代
  
磨石の直径 約8p
  
出土:豊岡市日高町
  
(撮影データ:2006/4/17  EOS 1D 24−70o  Mr.ヱビス)

  

17.軒丸瓦@


お寺の軒先に葺いた瓦です。昔は本瓦葺といって平瓦の合わせ目に土管を半分に割ったよう
  
な丸瓦を被せていました(いまでもありますが)。軒先の瓦は、蓮の花や唐草を模った模様 を施
  
し、屋根を飾ります。
  
 文様は、寺によって異なることも多く、また、文様の特徴で時期 を決める重要な役目を果たしま
  
す。 この瓦の文様は、古い新羅形の瓦に類似しています。時期は、7世紀の前半と考えられ、 古
  
墳を造る古い社会体制にありながら、一方では新しい政治体制や仏教文化を受け入れよう とし
  
た頃のものです。 但馬では最も古い瓦で、当地域の寺院建築のはじまりを考える上で重要なも
  
のです。
  
直径約14p
  
出土:朝来市和田山町
  
(撮影データ:2006/1/31  EOS 1D 24−70o  Mr.ヱビス)

  

16.縄文土器


口縁部

俯瞰撮影

縄文時代に作られた土器を縄文土器といいます。これは、土器の表面に縄を押し付けたような
  
模様の土器が多く作られていることからです。
  
さて、この土器のかけらは5000年ほど前の縄文時代前半に作られた深鉢型土器(ふかばちがた
  
どき)の口の部分です。 表面を見ると、縄を転がしたような模様と、棒で引いた線、模様の見えな
  
い部分が見えます。これは、最初に棒に細い縄を巻きつけ、それを土器の表面に押し付けるよ
  
うに転がして全体に縄の模様をつけます。
  
その後、縄目を残したいところと消したい ところの境に線を引きます。そして、消したい部分の表
  
面を磨くようにこすります。
  
この順番は、土器をよく観察するとわかります。
  
口の頂上部にあけられた穴は、貫通せず、装飾効果を考えてあけたものでしょう。 表面が所々
  
赤く見えるのは、朱を塗っていたからです。
  
縄文人というと、毛皮をまとい、石の槍や斧を持って動物を追っかけているイメージを持ってしま
  
いますが、一方でこのような洗練された土器を作っていたのです。
  
最大幅 約9p
  
出土:日高町
  
(撮影データ:2006/2/20  EOS 1D マクロ50o   Mr.ヱビス)