古代の公文書を巻いた軸木のみだし部分です(隠語では題籤軸といいます)。
軸木は折られて いますが(写真の「死逃帳」の全体が写っている下端近くに、
軸木の横方向に刃物が入ってお り、意識的に折ったものと考えられます)、
もともとは30p位あったと思われます。横長の和紙に 書いた文書を軸に巻くと、
開かないと中に何を書いたかわからないため、上部に見出しを書くよ うにしたのです。
片面には「朝来郡」、裏面には「死逃帳」、写真ではわかりにくいのですが、
両側面に「天長三 年(西暦826年)」と書かれています。このことから、この軸木には、
天長三年に朝来郡内で死亡 した人と、逃亡した人を書き連ねた戸籍関係の文書が巻いて
あったことがわかりました。こうした 文書は、郡の役所で作成され、それを国の役所
(国府)に報告、国府では各郡から集められた 同様の文書をまとめ、都に報告しました。
木はヒノキ材 時代 平安時代
現存長 12.3p
出土:日高町
(撮影データ:撮影日 2006/4/30 EOS D 28-105o Mr.ヱビス)
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18.石皿(いしざら)と磨石(すりいし)
石モノでいきたかったが、石材に自信がないので古モノで。
米作りが始まる以前の縄文時代は、狩猟や木の実を採集して食べていました。
その頃は、金属器もないため、捕まえた動物は石で作ったナイフなどで料理し、
木の実は石です りつぶして調理していました。 そのとき使われるのがこの石皿(下)
と磨石(上)です。
「川原の石とどこがちがうねん?」と言い たい方もあると思います。
決め手は、このような石の出てこない縄文時代の土層から見つかったこと。さらに、石同士
をこす り合わせて実をつぶしていますので皿の中央部はくぼみ、両者とも通常の
川原石よりも研磨さ れ、つるつるしています。縄文時代の人に習って、ドングリで
クッキーを作ってみましたが、なかな かいけました。
まぁ、今で言う擂鉢と擂粉木ですね。
縄文時代
磨石の直径 約8p
出土:豊岡市日高町
(撮影データ:2006/4/17 EOS 1D 24−70o Mr.ヱビス)
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17.軒丸瓦@
お寺の軒先に葺いた瓦です。昔は本瓦葺といって平瓦の合わせ目に土管を半分に割ったよう
な丸瓦を被せていました(いまでもありますが)。軒先の瓦は、蓮の花や唐草を模った模様
を施 し、屋根を飾ります。 文様は、寺によって異なることも多く、また、文様の特徴で時期
を決める重要な役目を果たしま す。
この瓦の文様は、古い新羅形の瓦に類似しています。時期は、7世紀の前半と考えられ、
古 墳を造る古い社会体制にありながら、一方では新しい政治体制や仏教文化を受け入れよう
とし た頃のものです。
但馬では最も古い瓦で、当地域の寺院建築のはじまりを考える上で重要なも のです。
直径約14p
出土:朝来市和田山町
(撮影データ:2006/1/31 EOS 1D 24−70o Mr.ヱビス)
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16.縄文土器
口縁部
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俯瞰撮影
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縄文時代に作られた土器を縄文土器といいます。これは、土器の表面に縄を押し付けたような
模様の土器が多く作られていることからです。
さて、この土器のかけらは5000年ほど前の縄文時代前半に作られた深鉢型土器(ふかばちがた どき)の口の部分です。
表面を見ると、縄を転がしたような模様と、棒で引いた線、模様の見えな い部分が見えます。これは、最初に棒に細い縄を巻きつけ、それを土器の表面に押し付けるよ
うに転がして全体に縄の模様をつけます。
その後、縄目を残したいところと消したい
ところの境に線を引きます。そして、消したい部分の表
面を磨くようにこすります。 この順番は、土器をよく観察するとわかります。
口の頂上部にあけられた穴は、貫通せず、装飾効果を考えてあけたものでしょう。
表面が所々
赤く見えるのは、朱を塗っていたからです。
縄文人というと、毛皮をまとい、石の槍や斧を持って動物を追っかけているイメージを持ってしま
いますが、一方でこのような洗練された土器を作っていたのです。
最大幅 約9p
出土:日高町
(撮影データ:2006/2/20 EOS 1D マクロ50o Mr.ヱビス)
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